崩道祇園祭レポート
崩道祇園祭 2003.7.16(旧暦6.16)
柳川市南浜武の崩道(くえどう)地区にある観音堂にて、毎年、旧暦の6月17日に崩道祇園祭が行われます。
2003年の今年は新暦の7月16日に開催されました。
私が17歳の時に柳川の大蛇山の話を聞き、それから場所を探したのですが、役所に聞くも皆知らず、祭りの所在地を突き止めるまで、実に5年近くかかりました。
崩道の区長である椛島さん(当時)にお話をきくと、大蛇山の製作はしっぽ、他部品を除き、本体は祇園祭の当日朝から行われるとの事なので、その日は朝から見学に行くことにしました。
大蛇山の製作風景
本体製作
祇園祭当日、朝の8:30くらいに観音堂に到着しました。到着した時にはもう、しっぽは組み上げられていました。
写真のしっぽは2つあるのですが、ここの大蛇はつがいで2体居り、奥が雄の方のしっぽ、手前が雌のしっぽです。
奥にみえる、木に括り付けられている長いしっぽは、雄の大蛇のしっぽで、その長さは10mほどありました。
一方、雌の大蛇は短く、3mちょっとでした。
雄のしっぽ 雌のしっぽ
製作は1体をそれぞれの部落が担当し、雄は崩道西という部落が担当し、雌は崩道中という部落が担当するとの事です。
8:30に時点では、崩道西が製作しており、あごの藁を組んでいるところでした。
写真:下あご
あごが完成したら、次は顔の部分の組み上げにはいる様です。
まず、下顎の台座となり、のどの部分となる藁を敷く。その上に下顎を乗せる。
下顎の根元部分に藁を適量置き、上顎を乗せる。
こういった手順で上顎を乗せるまで、一人がお尻で踏みながら形を調整していました。
上顎まで調整したら、喉の藁、下顎、口の中の藁、上顎の藁を荒縄で縛り上げて固定していました。
顎には後で泥をぬるので、泥の重さで顎が下がるのも計算に入れながら作業をしていた様でした。
次に、頭となるところを作るようです。
まず、頭の幅を決め地面に鉄骨を4本入れます。
鉄骨が枠となり、その間に藁を敷き詰めていきます。ちょうどいい高さまで藁を敷いたら、これも荒縄で縛り形を整えます。
前面に出ている不要な藁をはさみで切ります。これで骨組みは終わりの様です。
つぎに、上顎の鼻の部分に針金を通し、後ろの鉄骨に結んでいましたが、これは泥の重さによる沈下を防ぐ為のものだと思われます。
しっぽと顔との間に隙間が出来ない様に藁を置いていたみたいだが、整形はしていませんでした。後から分かった事ですが、正面からは見えなくなる為、無造作でもよいみたいでした。
泥塗り
泥塗りの作業は中学生の仕事のようです。
藁の中に押し込むように塗れと親父方の声が飛び、子供たちを叱咤しています。子供たちも負けじと厚めに潟泥が塗り込んでいました。地域社会の教育をみた気がします。
丁寧に潟泥が塗り込まれました。次はしじみ貝の貝殻を隙間なく大蛇に貼りつける作業のようです。
しじみがびっしり貼りついている姿はすごく奇妙でした。鼻の穴は、しじみの内側が見える様に立てて取付けられました。かわいらしい鼻の穴です。
次に目玉を取付ける作業。
目玉は幅10cmほどの貝殻に金紙や銀紙を貼り、黒眼を入れているものをあらかじめ用意してありました。
バランスをみながら適当な位置に取付け(押し込む)ています。
お次は牙。「メカジャ」という名前の、今では大変貴重だという貝殻が牙になるそうです。
犬歯に当たるところはアゲマキ貝を取付けていました。
残り、又剣(つの)、耳、ひげ、鼻ひげ、奥歯をバランスを取りつつ取付けます。
最後に口の中に食紅で朱を塗り、大蛇は完成です。
目玉や又剣等の役物は、前もって作られていました。
飾り付け
大蛇が完成したら、次に飾り付けに取り掛かったみたいです。
大蛇の堀の周りには泥で盛られた土台に、立派な固い藁が交互に重なるようにとりつけられ、土台の中に、水で溶いた真っ赤な食紅の液を注ぎ込んでいました。
意味を聞くと、それは薮をイメージし、そこには血塗られた池(水溜まり)を表現しているとの事だそうです。
藪に潜む恐ろしい大蛇山、というのがイメージだそうです。
大蛇の後ろには柵が設けられ、それが見えぬ様、すすきをたくさん並べていた。これも薮を表現しているそうです。
完成!
飾り付けが終わり、大蛇山の準備が整いました。時刻は12時。
あとは、祇園祭の開始を待つばかり。夕方より始まり、夜になれば火を噴くところが見られるということでしたが、仕事のため行けません。仕事が終わり、急いで駆けつけても22時を過ぎてしまいます
すごく残念です。
というわけで、駆けつけた時は言葉通り「あとの祭り」でした。
完成直後の写真と、祭りの後の大蛇山の写真を掲載しますので、それを見て祇園祭を想像して頂きたいと思います。
あとがき
今回の崩道祇園祭について、その起源や昔の話について、地元の方々にいろいろなお話をうかがったので、私の考察(主観)も交えながら紹介したいと思う。
まず、この敷地内に祀られている神様は観音様、馬頭観音、お稲荷さんだ。
祇園祭は、素戔嗚尊や牛頭大王を祭神としているので、祇園関連の神社ではない。鳥居も存在しなく。地元では観音堂、または六角堂とよばれている。
祭りの前に入魂式等の神事は行うのですか?と質問をしたところ、やっていないとの返事だった。
次に、この大蛇は大蛇山なのですか?と質問したら、大蛇山だという。形こそ大牟田の大蛇山と違えど、三池、他各地にある大蛇山と同様の祭りと言うことだ。
この祭りの起源を聞いたが、明確に応えられる人はいなかった。そりゃそうだろう。大牟田でも大牟田の大蛇山の起源を明確に応えられる人はいない。
しかし、ここは柳川藩のお膝元。数キロ先には御花もある。柳川藩、三池藩の大蛇山祭りがここでは違う形で始まって、違う形の大蛇がいてもおかしくはない。
それよりも、藩が関わる以前から大蛇山の霊験が信じられていたら、大変興味深い。藩さえも関与していなかったら、大蛇山の起源は民族信仰からの、それこそ神代から続いている祭りなのではないかとさえ思っちゃったりもする。しかし、私は崩道祇園祭の史料をみたわけではないので、この話はここまでで控えさせて頂き、今後の勉強課題にしたいと思う。
結論、ここの地元の人は、御祭神はなんであれ、この地方独特の大蛇山が存在すると言う事。干拓地で、近くの川からとれる資源で大蛇山を製作していると言うことだ。
規模は小さい祭りだが、大変興味深いお祭りである。あとがきまで読まれた大蛇山マニア、また興味を持たれた方は一度訪ねてみられてはどうだろうか。
以上。
2003.7.18 溝田智司
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